国立能楽堂
... 攻略スレは勿論質問スレや初心者スレなどドシドシお待ちしております 携帯ゲーム攻略(仮)@2ch掲示板 http://schiphol.2ch.net/handygover/ ルーンファクトリー1ってベスト版が出てるようなんですが そのベスト版ってバグとか不具合とか修正 ...
3戦目
3回阪神 7 日目 第7R 3才未 勝 利戦(芝2400m) 8 枠 14 番 メジロブリット 川田将雅騎手 56kg 初戦10着→2戦目9着→3戦目?着 掲示板はないかなぁ… 今は実戦を経験させて、競馬を教え込んで行く段階やけど… 連闘策が良い方に出 ...
在宅介護で母の晩年を支えていたころ,清拭などの身体介助で入ってくれた五人の訪問ヘルパーのなかに,能楽師の娘がいた。ごく普通の結婚して二児の母となり,パートで家計を支えていた彼女自身が,能楽の世界と深く関わっているわけではなかったが,毎週一回の訪問で雑談を重ねるうち,在宅を支える同志という感覚も手伝ってすっかり仲良しになり,問わず語りにお互いの家族のことを話しあうようになった。一般的に持たれているイメージと違って,名門の家に生まれたわけではないごく普通の人間が,伝統芸の世界で身を立てるのは並大抵のことではなく,実家は長いこと貧乏暮らしであったこと,継承者である男子をもうけなくてはならなかったため,両親はこの次ばかりはと子供を作りつづけたものの,生まれるのは女ばかりという四人姉妹のなかで育ったこと,多忙な父親と,社会活動に携わっていた母親の留守がちの家庭にあって,四人姉妹はそれぞれ自分が一番不幸な子供だと思っていたのが成人してからわかったことなどを話してくれた。私自身も音楽の世界の末席を汚し,芸事についてまわる不安定な生活の大変さを身に染みて知っていたため,それが家族に強いる苦労には,忸怩たる思いも共感する部分も多かった。
在宅介護をしていた頃から,一度父の演能を観てほしいと言われていたのだが,24時間介護の毎日では自分の時間などどこにもなく,今回初めてお誘いを受けて国立能楽堂での能楽鑑賞となったのである。会場で家族のなかにいる彼女と再会するのを楽しみにしていたのだが,当日は抜けられない研修が入ったということで会うことはできなかった。さかのぼって,母の葬儀が一通り終わった後,花とお供え物をもって弔問に訪れてくれた彼女は,涙を流して母の死を悲しんでくれた。彼女が泣いてくれたことで,在宅介護に入ってからずっと張りつめ通しだった私の気持ちが,ほっと癒されたのを覚えている。それまでの私には,泣くことすら許されていなかったということが,このとき初めてわかった。そのとき彼女は,訪問ヘルプをしていて辛いのは,こうした老人たちの死別の場面と向き合わなければならないことで,感情が大きく揺り動かされてしまう自分は,この仕事に向いていないのではないかと悩んでいた。精神的なストレスに耐えられないと。そのようなことがあり,そのときすでにご主人の会社から近いところに転居することになっていた彼女は,新しい土地で訪問ヘルパーをつづけるかどうか迷いに迷っていたのである。私は彼女のような優しい人にこそ在宅介護に関わってもらいたいと思い,彼女にそう言った。さぞや大きな選択だっただろう,しかしこの「研修」は,間違いなく新たなヘルパー派遣会社での実技研修のことである。私は彼女が自分の気持ちを乗り越えたことを知って嬉しかった。
六月六日(土)午後一時から千駄ヶ谷国立能楽堂で開催された第21回潤星会(金剛流)公演の演目は,山田純夫がシテの落葉の宮を務める「落葉」,狂言「樋の酒」,そして山田夏樹がシテの稲荷明神を務める「小鍛冶」である。自由席となる脇正面の席ではなく,見やすい正面の指定席を取っていただいた。「落葉」を小面の面をつけて演じた父上は,つづく「小鍛冶」の演目でも,後見(物語の進行を見守る人)として演者たちの後に控えていたので,素顔を見ることができた。私などに演能の仔細を評価するような見識はない。訪問ヘルパーの彼女の父上の声を聞き,跡を継ぐことになった従兄弟の声を聞くという,それだけのためにそこにいたようなものである。能楽の時間はとてもゆっくりと流れるというが,改めて体験してみると,丁々発止と打ちあう能管や大小の鼓といった囃子方,あるいは八人のメンバーで構成される地謡の応酬などは,決してそうしたのんびりとしたものではない。芸と芸が火花を散らしている。様式化された演者の足の運びを待つ長く間延びした時間と,意味不明となった古い言葉を,そのまま舞台に乗せるところに生じる不透明性,すなわち言語の物質性のようなものが,私たちの日常的なコミュニケーションを関節はずしにかけ,一種の齟齬感を観客に引き起こさせる。このようにして異物化された時間が,「ゆっくりと流れる」というように感覚されるのではないだろうか。正確に言うなら,これは「ゆっくりと流れる」ではなく,「別様に流れる」ということになるだろう。中世芸能の世界の再現ではなく,いまここの異物感が私たちに働きかけてくるのである。
これは音響的試行の数々に通じるもののように思われた。というより,考えてみれば当然の話だが,現代に生きる私たち聴き手は,ここにある時間しか生きることはできないということであろう。音響的即興においても,能楽鑑賞においても,私たちは現在を生きるだけである。■
※上掲画像は,千駄ヶ谷にある国立能楽堂の入口前に立った掲示板と能楽堂本堂。画面が紗のかかったソフト・フォーカスになっているのは,やはりレンズにベタベタと指紋がついていたのに気がつかないままで撮影したための思わぬ効果。
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